【臨濟護國禪寺】日本統治時代初期の木造本堂が残るお寺@MRT圓山駅・花博公園傍


MRT圓山駅すぐの花博公園に隣接してひっそりと日本統治時代のお寺が残されています。

それが、臨濟護國禪寺

お散歩中に立派な鐘楼を発見して。ググってみると中に木造の本堂が残っているとのことで見に行ってきました。

日本統治時代初期に建築されたとても立派な本堂でした。

歴史がとても深く、あっちこっち情報を読んでいたらまた長くなってしまった(^^:)

臨濟護國禪寺とは

まず「臨濟護國禪寺」の意味ですが、

◯ 臨濟(臨済宗):禅宗のひとつで、唐時代の臨済義玄が開いたもの。日本へ伝わったのは鎌倉時代。日本三大禅宗の一つ。
◯ 禪寺(禅寺):禅宗(坐禅により悟りを得る修行を行う)のお寺を指し、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が総称的な禅寺。

つまり、臨済宗のお寺です。臨済宗は14の宗派に分かれており、こちらは臨済宗妙心寺派のお寺だそうです。

参考:

1900年創設。紆余曲折を経て建立された歴史


建立は1900年、本堂が完成したのは1911年。

日本統治時代が始まったのは1895年(明治28年)なので、統治が始まって比較的すぐにできたお寺ですね。

臨濟護國禪寺は、第4代総督(1898-1906)・児玉源太郎の申し入れにより建てられたお寺だそうです。

ですが紆余曲折を経て建立に至っています。

まず、臨済宗の僧侶が渡台したのは元々は中国南部への進出拠点としたかったからだそう。そのため最初の拠点は澎湖(台湾と中国の間に位置する島)に置かれています。

しかし台湾国内のひどい状況を目の当たりにし、優れた善智識を伝えねばと国内布教にも考えが及ぶように。

その過程で第4代総督・児玉源太郎と出会い援助を受けることに。児玉源太郎は臨済宗を信仰しており、台湾統治や日清の精神融合に仏教を用いることはできないかと考えていたそう。

児玉源太郎の台湾布教の意を受け、その責任者を日本で探し求め、派遣されたのが初代住職の梅山玄秀。

はじめは剣潭寺(台北で最古の寺院-1773年)にて布教活動を開始するも、衛生環境があまりにも悪く、梅山と共に渡台した布教師が次々と病で倒れていくのを見かねた支援者と児玉源太郎が新寺院建立を決意。そうして1900年「圓山精舎(臨済護国禅寺の前身)」が完成。

その後、日露戦争(1904-1905)を経て帰国した児玉源太郎は臨済護国禅寺を訪れ、本格的な寺院の建立を提案。

しかし翌年児玉は急死してしまいます。

後ろ盾がなくなり資金面で非常に苦労するも、亡き児玉の遺志を継ぎ整備が進められ、1911年に本堂がようやく完成。

臨濟護國禪寺HPより画像をお借りしました)
当時の写真。写っているのは禅堂と鐘楼。

占領した側として適切な発言ではないかもしれないけど、これだけ見るととても素敵な風景だなぁ。

参考

国民政府の接収から逃れた貴重なお寺

臨濟護國禪寺は戦後、国民政府の接収から逃れた貴重なお寺だそうです。

でもはじめは他のお寺(善導寺や東和禅寺、東本願寺、西本願寺)と同様、日本統治時代の資産として国民政府に接収されたそう。
(神社は破壊または改築され、戦死者を祀る忠烈祠や施設に転用された)

本堂や禅房は砲兵に占領されてしまいます。ではなぜ逃れられたのか?

それは中国から来た僧侶・白聖老和尚が政府と軍に交涉、お金を積んだから。やっぱり世の中地位とお金…

この白聖大和尚は中国湖北省出身、台湾にて中国仏教会理事長、世界佛教僧伽会会長などをされ、死後はその教えが何冊もの書籍となるなどすごい方。
釋白聖-白聖法師-中國佛教會より画像をお借りしました)
↑前列真ん中の方。

臨済宗の教えを説いていた方なので、このお寺を放っておけなかったのでしょうか。終戦までに台湾人の信徒数が増えていたことも理由の一つかも。

また他の宗派と異なり、従軍した僧侶によって布教開始したわけではないのも大きな要因だったかもしれません。

いずれにせよこの方のおかげで戦後もその形を維持したままお寺として存在できたようです。

参考:

今の外観になった理由

私、台湾のお寺の中に日本のお寺の一部が残されているのだ思ってたんですが、この黄色と赤の原色の建物含めて全てが「臨濟護國禪寺」なのだそうです。

だってあまりにも配色や雰囲気にギャップがありすぎません?▽

当時のお寺の形を維持したまま戦後をやり過ごせたのに、今の形へとなったのはMRT建設による影響だそう。

1980年代、MRTレッドラインの開通に伴う圓山駅の設置でお寺を移動させねばならず、状態の良かった本堂と鐘楼のみ残されたとのこと。

その他の建物は建て替えとなったわけですが、公式HPには多くの和尚さんと話し合った末、と書かれていました。

1972年に台湾と日本の国交断絶してからは残る神社が破壊されたりなど日本統治時代の建物への嫌悪感があったので、きっと本堂と鐘楼を残すのも容易ではなかったのではと推測します。

周りの声も汲んだ結果、今のような外観に至ったのかなと思いました。

1998年に台北市の「市指定古蹟」となっています。

寺院には当時の台湾総督府民政局長・後藤新平のデスマスクがある

優れた知将と言われる第4代総督・児玉源太郎が自らの補佐役に抜擢したのが後藤新平民政局長。

この後藤新平も台湾経営の基礎を築いた明治期日本の有能官僚だったそうです。元医者でありながらその才能や手腕から内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事。

台湾では経済改革とインフラ建設を推進。上下水道と病院を設置し衛生面を改善、道路・鉄道・港湾など交通網を整備、学校教育の普及、さらに製糖業・林業など基幹産業の育成に努めた方。

そんな後藤新平のデスマスク(死者の顔の型を取ったもの。偉人や死刑囚などにされることが多い)が臨済護国禅寺に保存されているそうなのです。

こちらの記事で実際の写真が確認できます▽

献納したのは辜顕榮という台湾の実業家で政治家の方。後藤新平から絶対的な信任を得ており、1934(昭和9)年の貴族院議員に勅選された最初で唯一の台湾人とのこと。

後藤新平が亡くなったのは日本なので、日本から台湾へ持ち帰り、献納したということですよね。そんな重要なものが保管されていたとは。

参考:

アクセス


MRT圓山駅から徒歩3分。めちゃくちゃ駅前なのにお寺の存在に今まで全く気付かなかった(^^;)

花博公園の入口から北(左)の方へ歩いて行くと原色の黄色い建物が見えてきます▽
(建物側から駅方面を撮った写真↑)

奥へ進むとこれまた原色の赤い門があり、その横に小さいけれど立派な鐘楼山門があります▽

鐘楼の横には「根本道場 禅臨濟宗 鎭南山臨濟護國禪寺」の文字▽
「根本道場」は総本山の意。

この赤い門をくぐり、白い建物の奥へ進むと、▽
本堂があります!

お寺はこんな感じ

鐘楼山門の横の石碑には「施主 臺北在住岐阜縣出身有志者樹立」「昭和十??年春三月」と書かれていました。

岐阜県出身が気になる岐阜県民(私)。

江戸時代の典型的な建築様式だそう。本当に立派だ。

別の日、鐘楼の屋根に大量のハトが止まっているのを発見。大量すぎてビックリ。笑

なんでここだけ?保護色だから?

奥へ進んだところにある本殿。正面に書かれている「大雄賓殿」は、本尊を安置する本堂のこと。

神社と違って台湾内の日本のお寺はそもそも少なく、保存状態の良さは臨済護国禅寺が唯一ではないでしょうか。

これは台湾の方々による保存の賜物で、シロアリによる侵蝕と2001年の台風により状態が悪化したため、2007年前後に大修理が行われています。

木材は宜蘭産のヒノキが、瓦は黒瓦と筒瓦を名古屋から取り寄せられています。また修復に際し、日本からも資金援助があったそう。


本堂脇には鐘が吊るしてありました。

こんなにも歴史のある建物が花博公園のすぐそばにあったなんて。

この他にも、本堂裏にある赤い門をくぐり、階段を登っていくと当時の仏さまやお地蔵さん、石碑など様々な貴重なものが残されているそうです。(知ってたら合わせて見学したかった!)

お寺を見学できる時間は、
8:00〜11:30/13:00〜17:00です。

興味のある方は是非! 

余談〜お寺の近くにある日本風の建物〜

お寺から花博公園に入り、そのまま公園の端を歩いていくと、これまたひっそりと日式の建物が現れます。

緑のトンネルが目印。

中へ入ると昭和の日本のような建物が。

周りの景色も相まってジブリっぽい雰囲気。

入口には「圓山緑化教室」とありました。

中を覗いてみると学校みたい。

調べてみると、この建物、「2010台北国際花博覧会」でテレサ・テン(鄧麗君)の展示が行われていた場所だそう。

テレサ・テンって台湾出身なんですよね!(金山にテレサ・テンのお墓があって初めて知った)

つい最近、NHKの特集で「テレサ・テン激動の人生」という番組を見たんですが、あんなにも歴史に翻弄された生涯だったとは全く知らず。改めて当時の絶大な人気とその魅力を知りました。

現在は環境教育センターとして使われています。

大きな木の木陰にはおじいちゃんおばあちゃんが集い腰かけ、なんと日本の演歌を爆音で流しているではありませんか。

日本の演歌、他の公園でも爆音で流してるの聞いたことがある。日本統治時代を過ごされた方にとっては大切な時間なんだろうな。音楽は関係ないもんね。

お天気の日には遠くに101も見える気持ちのよい場所でした。


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